那覇市首里金城町にある世界遺産「玉陵(たまうどぅん)」は、琉球王国時代に造られた王族のお墓です。
先日の記事で“気持ちをリセットできる場所”のひとつに挙げました。
先日の記事→たまには一人になりたい-沖縄で見つけた気持ちをリセットできる場所
今日はこの玉陵にまつわる人間臭い歴史物語を、自分なりに紹介します。
玉陵碑に刻まれたリスト
玉陵が造られたのは1501年。琉球王国時代の第二尚氏王統と呼ばれる政権のとき。第二尚氏三代目の尚真王(しょうしん王)が、亡き父・尚円王を葬るために造らせたお墓です。
玉陵が造られた頃、いやそれよりもっと前から、王宮内では激しい権力争いがあったようです。
それを物語っているのが、玉陵の墓室の前に建てられた石碑、玉陵碑(たまうどぅんひ)。
この石碑には、玉陵に葬られる“資格”がある者のリストが刻まれています。リストにあるのは尚真王とその母・宇喜也嘉(オギヤカ)、妹、そして尚真王の息子娘たち。
なのですが、不自然なことに尚真王と妃の間に生まれた長男・尚維衡(しょういこう)の名前がありません。
実は尚維衡は策略にはまり王宮から追い出された人でした。そして長男であるのに王位を継ぐことはなく、尚真王の跡を継いだのは五男の尚清(しょうせい)でした。
さらに過去には、尚維衡の祖父・尚宣威王(しょうせんい王)も、在位わずか半年で王宮から追い出されていたのです。
王宮から出ていった尚宣威王
尚宣威王は、第二尚氏王統二代目の王です。初代は尚円王。そして尚円王の長男が尚真。
本来なら尚円王の跡取りは尚真なのですが、尚円王が亡くなった時、尚真は数え年13歳。だから尚真が大人になるまで尚円王の弟である尚宣威がしばらく王位に就くことになったそうです。
ところが尚宣威王の即位を祝う神事でのこと、神女たちが尚宣威王に背を向けて尚真を祝福するという事件が起こったのです。
この事件をきっかけに尚宣威王は王宮から出ていったとされています。史書では尚宣威が自分は王にふさわしくないのだと悟り、自ら身を引いたっぽく書いてあるようですが、実際はどうだったんでしょうねぇ。
宇喜也嘉にかけられた疑い
ところで、尚宣威王や尚維衡を追い出したのは尚真王の母・宇喜也嘉だったのではないかという説があります。
尚宣威王が出ていくきっかけとなった神事で、尚真を新王として祝福した神女たち。彼女らを束ねていたのは、宇喜也嘉だったそうです。
それに尚真王の長男・尚維衡が廃嫡されたきっかけは、義母の讒言だったという話もあり、女たちの結託を想像してしまいます。
そして尚真王が大人になるまで実権を握っていたのは宇喜也嘉だったのだろうといわれています。
擦れ違う人間模様
さて、幼い我が子を王位に就け、権力をふるい、次王の継承にまで口を挟んだとされる宇喜也嘉でしたが、61歳でこの世を去った後、碑文の通り玉陵に葬られたのかどうかは定かではありません。
玉陵から、はっきり宇喜也嘉のものだとわかる石厨子(骨壺)が見つかっていないんだそうです。
そして宇喜也嘉の後ろ盾で王位継承者となった尚清王は、即位してすぐに、玉陵の碑文から除外されていた尚維衡を玉陵に移葬しています。
尚真王が在位していた時代は、琉球王国として最も栄えていた時代。もし、本当に宇喜也嘉が実権を握っていたのだとしたら、その才はもっと称えられてもいいはずなのに…。
これは超素人の考えですが、宇喜也嘉が亡くなった後の宇喜也嘉の扱いが、なんとなく雑なように私は感じるのです。
もし、一連の権力争いの根源が宇喜也嘉だったとしたら、彼女は本当のところは何を求めていたんだろう。彼女の目には何が見えていたんだろう。そして、尚真王にとって宇喜也嘉とはどういう存在だったんだろう。尚清王は何を思って玉陵碑の掟を破ったんだろう。
とても考えさせられる歴史の物語です。
人生と向き合える場所「玉陵」
遠い昔の、そして自分にとっては遠い存在である王族の間で繰り広げられていたのは、超人間臭いドラマでした。
でもそれを知ると、皆それぞれの時代にそれぞれ悩みながら生きてきたんだなぁと思うんです。皆人間なんだなぁと。
自分では選べなかった環境や、訳の分からない巻き添えに苦しんだこともあったでしょう。それでもこの玉陵のドラマに登場した人たちは、それぞれタイミングを見計らいながら自分を貫いてるように見えて、それを私はかっこいいなぁと思うのです。
何かに迷ったり、わからなくなったら、またここに来よう。そして(恐れ多いですが)人生の大先輩に話を聞いてもらおう。と、なぜか自分の生き方と向き合える不思議なお墓。それが玉陵です。
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