沖縄本島北部、今帰仁村今泊の今帰仁城跡に行ってきました。
今帰仁城跡は、沖縄の世界遺産『琉球王国のグスク及び関連遺産群』のうちの一つです。
きっとオフィシャルの名称は今帰仁城跡なんでしょうけど、今帰仁グスクと呼ぶ方が私は馴染みがあります。それに昔は北山(ほくざん)グスクとも呼ばれていたそうですよ。沖縄特有の『城』と書いて『グスク』と読む場所。なのでここからは今帰仁グスクと書きますね。
ところで、グスクとは何なのか、ざっくり説明すると、大昔の琉球で各地の権力者や支配者が拠点にしていたところを指す場合が多いです。
さてラッキーなことに、今帰仁グスクに行ったのがとても人が少ない日で、ゆっくり見学することができたので、写真をたくさん撮りました。浅めの雑学を織り交ぜながら、今帰仁グスクの見どころを案内します。
平郎門(へいろうもん)と旧道
今帰仁グスクの入場券は、駐車場横の券売所で買います。
そして、現在今帰仁グスクの入り口になっているのは、平郎門(へいろうもん)。ここから先が有料区域です。チケットは平郎門の手前で渡します。
平郎門をくぐると、グスク内までまっすぐ階段が続いています。でも実は、その途中に右に逸れる道があるんです。
この右側に逸れた道が、旧道。元々はこっちがグスク内までの道だったそうです。
旧道は細くて険しい道です。確か、敵が攻めてきても1列にならないと通れないようにとか、1人が倒れたら隊列が乱れて進めなくなるように狭くしていると聞いたことがあります。
敵の侵入を防ぐために、人も馬も登りにくくしてるんですね。
大庭(うーみやー)
階段を登り切ると、大庭(うーみやー)に出ます。大庭は行事や祭祀を行う広場だったそうです。
北殿の跡
大庭に入ってすぐ左を見ると、石碑が見えます。
その昔、この石碑の後ろには、北殿という建物が建っていたそうです(神アサギがあったとも)。写真右端の『立入禁止』の看板の奥には、ひっそりと香炉が置かれていました。現在も参拝に訪れる人がいる場所だそうです。
不思議な泉カラウカー
順路に従って大庭内をそのまま進むと、右手に見えるのがカラウカー。
カラウカーとは、昔、泉があったところだそうで、女官が髪を洗ったりもした泉だそうです。
とだけ聞くと、へー。で終わってしまいそうなんですけど、カラウカーがある大庭を見渡してみると、この場所は、ほぼ山のてっぺんにあるんですよね。
常時水をたたえていたというカラウカー。果たしてその水はどこから来ているのか。と考えると、不思議な泉です。
主郭
火之神の祠
大庭から主郭に入ってすぐに見えるのが、今帰仁里主所(なきじんさとぬしどころ)の火之神の祠。
この祠は、たぶんだけど、琉球王国の第二尚氏時代に配置された、北山監守たちの祖先が祀られているんだと思います。ちょっと自信ないですが。
第二尚氏時代の北山監守といっても、第二尚氏三代目の王(尚真)の三男の家系がその後代々監守を務めたそうなので、王族の祖先を祀っている。はずです。たぶん。
祠の場所は、何度か移動しているみたいですが、今も現役の拝所です。
正殿跡
火之神の祠に向かって左側には正殿跡。城主の屋敷跡ですね。
沖縄の史跡をめぐっていると、グスク以外にも誰かの屋敷跡をたくさん見ますが、みんな小っちゃいです。それを見ると、昔の人はホントに体が小さかったんだなと思います。
今帰仁グスクの正殿は、翼廊(よくろう)付きの建物だったそうです。翼廊付きって、10円玉の裏側に描かれている建物みたいな建築様式だそうですが、この場所にその建物ってイメージしにくいですよね。復元模型があったらいいのにな。
御内原(うーちばる)
主郭の正殿跡を通り抜けると、御内原(うーちばる)です。御内原は、女官部屋があった場所だそうです。
一番の絶景ポイント
そしてここは、今帰仁グスクで一番の絶景ポイントでもあります。
この写真を撮った日は、台風直後でまだ波が高く、雲も多かったけど、それでもこの美しさ。真夏のパキッとした水平線が見える日だったら、Oh! wonderful! な景色が見られることでしょう。
気が済むまで絶景を堪能したら、少し御内原散策を。
グスク内最高の聖地
主郭から御内原に入る小道のすぐ右手には、テンチジアマチジとよばれる御嶽があります。
ここは、今帰仁グスク内で最も神聖とされる御嶽です。
しかも、琉球開闢神話の中で、アマミキヨが最初に作った7つの御嶽の一つといわれているので、もしかしたら、今帰仁グスクが築かれるよりもっと前からある、この土地で最も神聖な場所なのかもしれないですね(ちゃんと調べてないですが)。
ここには、今帰仁グスクをお守りしている霊石・カナヒヤブが置いてあったという伝説があって、今帰仁グスクの最後の王・攀安知(はんあんち)が、琉球を統一した尚巴志(しょうはし)という人物に攻め込まれたとき、最後の最後、
「あんたはなぜ私を守らぬ!」
と叫んで霊石を斬りつけた。というストーリーの舞台になった場所です。
霊石は近年になって盗まれたそうで、今置いてあるのは、似た感じの石だと聞きました。
でもこの御嶽、少し前まで、何の木だったか迫力のある大木が生えていて、神秘的な雰囲気があったと聞いた気がします。落雷で木は折れてしまったんだとか。
そしてちょっとここから、独り言。
テンチジアマチジって雨乞いの御嶽だと思っていたんだけど、すぐに資料が見つかりませんでした。個人的に、アマミキヨは、農作を琉球に伝えた人たちのことだと思っているので、ここが雨乞いの御嶽だとしたら、「農作」と「雨乞い」のキーワードがつながって、ガッテンいくんですけどねー。どなたか詳しい方いらっしゃれば…。
独り言でした。
『ここオススメ』
テンチジアマチジ御嶽のすぐ側に『ここオススメ』という案内板が置かれています。
何がオススメなのか、辺りを見回してみると、わかりました。たぶんこれですね。
志慶真門郭(しげまじょうかく)の城壁がよく見える場所だから、オススメなんだと思います。
志慶真門郭の城壁は、ほぼ昔のままの姿を残している貴重な場所なんですって。
想像するいにしえの景色
御内原って、城主以外は男子禁制の場所だったと思うんです。それで私が思うに、正室や側室も御内原で暮らしていたんじゃないかなと思うんです。
私が思うにというか、昔観たドラマ『テンペスト』の影響でそういうイメージを持っていて。ただテンペストは、今帰仁グスクが栄えたころよりも数百年も後の話なので、今帰仁グスクの御内原とは違うのかも知れないんですけどね。
それでもし、私のイメージ通りに御内原で正室や側室が暮らしていたとしたら、毎日こんな素敵な景色を見ながら、例えば機織りとか歌を詠んだりしていたのかなぁ。って御内原に立ってみて想像してました。
御内原の真下には、大隅(ウーシミ)という、兵士や兵馬を訓練する場所があって、
今みたいに明け透けには見えなかったと思うけど、ここから馬を走らせる音とか、何かしらの武術を鍛える掛け声とか、聞こえていたのかなぁ。と。
それで、御内原から大庭(うーみやー)に出てすぐの場所に、今は歌碑が立っているんですけど、(先に北殿跡と紹介した場所の石碑です)
ここには、
今帰仁の城 しもなりの九年母
志慶真乙樽が ぬきゃいはきゃい
と刻まれていて、その意味は、
今帰仁のグスクに、時期を遅くして(待ちわびた)跡継ぎが生まれた。志慶真乙樽が、九年母で作った首飾りを、跡継ぎにかけたり外したりして遊んでいる。
というような意味だそうです。
ここに出てくる、時期を遅くして生まれた跡継ぎというのは、正室が産んだ男の赤ちゃん。志慶真乙樽(しげま うとぅたる)というのは、側室だった女性の名前で、めっちゃ美人だったみたいです。九年母というのは、ミカンとか、沖縄ではシークヮーサーのことも九年母といいます。
あんな絶景が見える場所で、遠くから馬の駆ける音や男たちの気合い、風の音、鳥の声とかに包まれて、めっちゃ美人な女性が、(正室が抱いていたかもしれない)赤ちゃんと、きゃっきゃ遊んでる姿を想像したら、なんて美しい光景なんだろう。って思いました。
ちなみに、時期を遅くして生まれた跡継ぎは、後に琉球史上重要な人物たちの祖先となるのですが、その話はまたいつか。
志慶真門郭
さて一度主郭まで戻って、火之神の祠に向かって今度は右手の方向に、階段があります。その階段を下ると、志慶真門郭(しじまじょうかく)です。沖縄では『門』という字を『じょう』と発音することがあります。
志慶真門郭は、今帰仁グスクの家臣たちが生活していた場所だそうです。
貴重な写真
そして今回、志慶真門郭でとっても貴重な写真が撮れたので、まずはそれをご覧ください。
でろーん。
2018年7月に接近した台風7号の雨で、主郭の石垣が崩れてしまったんですね。私はこのニュースを聞いたとき、グスクの石積みが台風で崩れるなんて…。とけっこうショックだったんですが、現代になって積み直した場所みたいですね。ならば納得。しょうがないことです。
新聞記事→世界遺産「今帰仁城跡」の石垣が崩れる【沖縄タイムス】
志慶真門(しげまもん)
志慶真門郭には、グスクの外にある志慶真村に続く門があったそうです。今もその門があった場所はあるのですが、
ここも、でろーんと崩れたまま、立ち入り禁止になっています。志慶真門はその昔どんな姿をしていたのか、まだ詳しく解っていないので復元していないんだそうです。
家屋跡
志慶真門郭からは、建物の跡がいくつか発掘されたそうで、子どものおもちゃも出土しているそうです。
今帰仁城主に使える人たちが、家族で生活していた場所なんですね。ここで、子どもがきゃっきゃ走り回っていたのかなぁ。
城跡の外にも見どころが
現在今帰仁城跡とされている有料区域の外には、昔の集落跡があります。
駐車場から近くて、比較的行きやすい場所にあるのが、今帰仁ノロ殿内(なきじんのろどぅんち)火之神の祠。
ここは、周辺集落の祭祀をつかさどる今帰仁ノロの屋敷跡です。昔、人が住んでいた場所ですね。林に囲まれた敷地の雰囲気が、なんかいい感じです。
場所はだいたいこの辺、
今帰仁グスクに人が住んでいたころは、グスク周辺にも集落があったそうです。その頃の想像図が、今帰仁村役場のサイトに載っていたのでリンクしておきます。
集落跡の他にも、ハンタ道というグスクに行くための山道や、物見台跡など、グスク周辺には歴史ある場所がまだまだあります。私もいつか、じっくり時間をかけて巡ってみたいなぁと思っています。
今帰仁グスクの魅力
今帰仁グスクの歴史はとても長くて、私もよく把握しきれていないのですが、ストーリー性に富んでいて、なかなかおもしろいんです。でも、深く知ろうとすると、急に煙に巻かれたように話がかみ合わなくなる、もしくは諸説が入り乱れてくる。勉強家にとってはもどかしいグスクです。
でも、今ふと気が付いたんですけど、今帰仁グスクって、実は一国の国王が居城していた時代もあるんですよね。
琉球が、中山・南山・北山の3つの勢力に分かれていたころ、中国明王朝の皇帝からのお誘いで、最初に中山、それから南山、そして北山がそれぞれ冊封体制に加わったと。それによって、それぞれが明国と公式に貿易ができるようになったので、国際的には一つの国として成立したことになる。的な話を読んだ気がします。
中山王や南山王と同じように、当時の今帰仁城主も明国から『王』の称号をもらって、北山王国は三世代続いたという、これってすごいことだよね…。と思い直しているところです。といっても、北山はあんまり進貢貿易に熱心ではなかったらしいですけどね。
沖縄の歴史を調べていると、本島南部の南山地域では激しく領地争いをしていた一方で、本島北部の北山地域は、一貫して皆が今帰仁グスクを目指している(狙っていた)印象が強いです。
南山地域が平面的な土地だったのに対して、北山地域は山が多い土地だったからという要素も大きいとは思うけど、それだけ、今帰仁グスクには支配者が求める好条件が揃っていたのかもしれないですね。そして時代と共に、そこの頂点に立つということの意味が大きくなっていったのかなと思います。
関連記事→沖縄の世界遺産-5つのグスク(城)
この旅行のダイジェスト&体験記事一覧→夏の沖縄旅行を本部町拠点にしたらめっちゃ良かった
コメント
とても興味深く、面白かったです。
次に沖縄に行くときにはぜひ訪れてみたいと思いました。
いつも楽しみに読ませていただいております^^
沖縄の文化、歴史は興味が尽きないですね!
ルッコラさん
とても長い記事だったのに、読んでいただけて嬉しいです。
ぜひぜひ、今帰仁グスクへ遊びに行ってみてください。景色も風も気持ちいいですよ。
沖縄の歴史って、調べれば調べるほどおもしろい話に突き当たるんですよね。興味が尽きないって、ホントそう思います。
いつもありがとうございます^^