天久聖現寺と天久宮へ行った話をマニアックに書きました

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昨日投稿した歴史散策の記事を書きながら琉球の歴史本を読み直していたら、そういえばしばらく琉球の歴史を調べてなかったなぁと思って、ちょっと楽しかったです。

(昨日投稿した記事→泊大阿母の拝所と潮花司の祠を探す歴史散策【那覇市泊・天久】

たまにはこういうマニアックな記事を書くのも楽しいかもねーと思ったので、昨日書いた潮花司の祠を探しに行く途中で立ち寄った、天久聖現寺と天久宮のことを、かなりマニアックな内容で書きますね。

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天久聖現寺はドラマ『テンペスト』で聞いたような…

潮花司(スバナチカサ)の祠を探しに行く途中、天久の聖現寺を見に行きました。

聖現寺を見に行こうと思ったのは、仲間由紀恵が主演のドラマ『テンペスト』で、側室の真鶴となって王宮に帰ってきた寧温が、迫り来るペリー提督一行の対処について首里天加那志に直訴するシーンでチラッと聞いた気がしたからです。

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ペリーを追い返さずに上陸させて、もてなしてくださいというような話の中で真鶴が「そうですね。(もてなしの)場所は聖現寺あたりがいいかと。」と言った気がします。

どんなところなのかとても楽しみに行ったのですが…

工事中だった天久聖現寺(那覇市上之屋)

工事中だった天久聖現寺

私たちが行ったときはお堂が絶賛工事中で、参拝所が仮設テントの中でした。これはさすがに残念な景色だったので門構えだけ撮って撤収。

なのですが、後で地図を見直してみると聖現寺から比較的近い場所にペリー提督上陸の記念碑を見つけたので、あのセリフはあながち聞き間違いではない気がします。

いろんな神さまがいた天久宮

聖現寺のすぐ近くに天久宮を見かけたので立ち寄ってみました。

案内板を読むと第二尚氏初期の頃にできたお宮さんのようです。琉球八社のうちの一つにもなっているみたいですね。

天久宮の鳥居(那覇市泊)

天久宮の鳥居

この鳥居の向こう側はたぶん駐車場だったと思います。本殿がある敷地は鳥居の左側の、狭い坂道を下ったところにありました。

天久宮は、どう表現していいのか…、なかなか神懸かった空間で、至る所にいろんな神さまが祀られているように見えました。

ちなみに私はお宮さんとかお寺さん関係の知識がまったくないのですが…。

天久宮本殿?

天久宮本殿?

おそらくこの建物内が本殿。上に写っている額に“天久宮”と刻まれていました。

そして権現堂という札のかかった小屋。熊野権現?のことですよね?

天久宮内にある権現堂

権現堂

天久宮の敷地の奥にはさらに下る階段があって、その先には御嶽がありました。左の石碑には“泊之ユイヤギ御嶽”と書かれていました。

天久宮内にある泊之ユイヤギ御嶽

泊之ユイヤギ御嶽

泊之ユイヤギ御嶽というユイヤギの意味を後日調べてみましたが、いまいち解りませんでした。これからの宿題です。

【追記】ユイヤギの意味、わかりました。おそらく、「寄りあげ」という言葉がもとになっていると思います。

「寄りあげ」というのは、浜に打ち上げられた砂などが堆積してできた場所を指すか、もしくは、海流の影響で、魚群や流木が打ち上げられることがある浜のことを指しているようです。

ということは、もしかしたら昔は、この御嶽付近まで波が来ていたのかもしれないですよね。もう一度見に行かなければ…。

天久宮に尚徳王三男一族のお墓があった

そして宿題といえばもう一つ、天久宮の敷地内に、首里士族一門のお墓がありました。

明氏の家紋が入ったお墓(那覇市泊・天久宮)

明氏の家紋が入ったお墓

墓石には”明姓御祖之霊”と言う文字と家紋が刻まれていて、調べてみると尚徳王の孫の子孫だそうです。

昨日投稿した記事にも書いた尚徳王は、第一尚氏王統最後の王で、クーデターによって王座を追われました。その時、尚徳王の三男はまだ1歳で、乳母に抱かれて現在の南城市佐敷方面へ逃れて生き延びたと、資料にありました。

(昨日投稿した記事→泊大阿母の拝所と潮花司の祠を探す歴史散策【那覇市泊・天久】

尚徳王の三男はそこで大きくなった後、第二尚氏が治める首里城で首里士族として返り咲いたそうで、その息子たち(尚徳王からは孫)の中にも士族として首里で仕えた人たちがいるようです。

なのですが、私は第二尚氏以降の歴史をほとんど調べたことがなくて、どういういきさつで天久のこの場所にお墓を建てたのかがピンときませんでした。おそらく一代目が天久地域の管理を任されていたのだと想像しているんですが…。墓石も沖縄らしくない大和風なのも気になるし、これも今後の宿題になりそうです。

天久宮で竜宮神発見-昔は海岸線だった?

天久宮の中で発見できて嬉しかったものが一つ。

天久宮で見つけた竜宮神(那覇市泊)

天久宮で見つけた竜宮神

出ました。竜宮神を祀る石碑です。竜宮神を祀っているということは、ここは河口や港だったはずです。

Googleマップで天久宮の位置を見てみると、今ではけっこう内陸寄りにありますが、「今昔マップ」で大正時代の地図と比較してみると、竜宮神があった場所はかなり海岸寄りだったようです。

今昔マップ

関連記事→沖縄の古地図が閲覧できるサイト

うんうん。こういうわかりやすいのは楽しいですね。

今昔マップを見ていて気づいたのですが、現在天久緑地になっている西側の端に沿って、昔は海岸線だったみたいですね。少なくとも大正時代まではそうだったみたいです。

天久緑地の中にもたくさん拝所がありそうな情報を見かけたので、また今度散策しに行きたいです。

こうやって大阪の自宅で琉球の歴史を調べていると、あーもー沖縄行きたーい!現地で見たいー!っていう思いが強くなるから最近全然歴史本を読んでなかったんです。昨日今日も記事を書きながら何回もそう思いました。

でも、現地に行ったら行ったでまた、今までまったく見たことも聞いたこともないような場所を発見したりするんですよね。そうやって次から次へと宿題をもらって帰るので、基礎勉強が追いつかない。みたいな。

だからおもしろいんですよね。たぶんこの先ずっと学び続けてても、次々と新しい発見とか接点が見つかったりして、琉球の歴史を学ぶのには終わりがないんだろうなと思います。

とか言って、私はまだスタートラインにも立ててないんですけどね…。

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