前回の記事では、許田集落の散策について書きました。
その記事の中で、後の御嶽(クシヌウタキ)について詳しく書きたいことがあると言っていた、今日はその話です。
前回の記事→許田の集落を散策
後の御嶽(クシヌウタキ)の謎
後の御嶽の拝所へ続く階段を登った時、私はとても不思議に思いました。
なんでわざわざ階段を登った先に拝所があるん?しかもめっちゃ中途半端な高さじゃない?と。
私はてっきり、この階段を登ったらその先には広場があって、そこに拝所があるんだと思っていました。イメージとしては、名護グスクの主郭みたいな感じです。
参考のために、名護グスクの写真はこれ。
あの階段の先にはきっと、こんな景色が広がっているんだと思っていたんです。
でも実際にあったのは、拝所を囲むコンクリートの建物だけ。しかもその建物はスペースギリギリに建っていて、写真がドアップでしか撮れないほど狭い余白しかありませんでした。(ってか階段を数段下りて撮れば良かったんだと今気がつく。)
なんでだ。なぜこの場所に拝所だけがあるんだ。だって、それなら階段登らんでも地べたに建てたらいいのにー。って思いません?
もしかしてひょっとして、この位置からは集落全体を見渡せて、なんだか見守ってる感があるのかも?と強引に理由を探して振り返ってみるけれど、
別段集落を見渡せるわけでもなく…。中途半端な高さにあることを、より一層強く感じたのでした。
謎だ。謎すぎる。
でも結局、その理由はわからないまま、許田散策は終了しました。
ヨリアゲマキウノ嶽
大阪の自宅に帰ってきて、歴史本を見ながら訪れた場所を調べていると、おもしろい発見がありました。
あの御嶽は、『ヨリアゲマキウノ嶽 神名イベツカサ』という名で、琉球時代の古い書物に載っている場所だったんです。
出ました。「ヨリアゲ」。最近私がハマっているキーワードです。
「ヨリアゲ」というのは、潮の流れによって魚とか値打ちのある物が流れつく場所だったり、波で押し上げられた砂とかが堆積して出来た土地。という意味だそうです。
そして、「マキウの嶽」の「マキウ」というのは、太古の時代に人間が生活していた場所なんじゃないかという解説でした。
これを素直に解釈すると、後の御嶽のあの丘は、波で押し上げられた砂的なやつが積み重なってできた丘で、太古の時代はあそこで人が生活していた。と考えられるわけです。
このヒントを糸口に、もう少し詳しく許田地区について調べてみました。
許田地区の地形
まずは許田地区の地形について。
現在の許田地区は、公民館付近に湖みたいな水辺があって、散策中にはカモと出くわしました。
この水辺は、名護湾(の湖辺底)からつながる入江で、その昔はもっと内陸の広い範囲が入江だったようです。
ということで、さっそく色塗りタイム。
地理院地図のサイトで、できるだけ古い航空写真を探して、それと現在の許田地区の航空写真を見比べました。それから、おそらく海水や水が来ていたであろう場所に色を塗ってみました。
できるだけ古いと言っても、1964年の写真なので戦後ですね。でもなんとなくイメージはできるかな。
こうやって見てみると、太古の時代は御嶽の南側にある集落も、もしかしたら海の中だったのかも知れないという気がします。
あの階段の意味
そして、歴史本に載っていたヨリアゲマキウノ嶽の解説を、さらに詳しく読みました。すると、あの御嶽の階段の謎に迫る、新たなヒントが見つかりました。
要約して引用すると、”許田の手水の西隣に、丘の中腹まで続く草が茂った小道があって、この道は、戦前まで村の老女たち(おそらく神女)がやっとのことで中腹まで登ってヨリアゲマキウノ嶽の祭祀をおこなった道だ。”というようなことが書かれていたんです。【『沖縄の古代部落マキョの研究』稲村賢敷著 p.72を参照しました。】
許田の手水の西隣にある小道って、あの御嶽の階段のとこかもしれない。だとすれば、あの中途半端な高さの場所は、あの丘の中腹に位置しているということか?そう考えれば、全てのつじつまが合う気がします。
つまり総合して推理すると、
太古の時代にあの丘の上で生活をしていた人たちは、地形の変化と共に今の集落の位置に降りて来た。
でも、あの丘は集落発祥の地なので、ずっと大切にして祈りを奉げてきた。
大昔は定期的に祈りを奉げるために丘の上まで登っていたけれど、てっぺんまでの道は険しいので、中腹あたりで遥拝するようになった。
とはいえ中腹までの道のりも、たいがい険しいので、階段を設置しようではないか。という歴史があった。
ということでいかがでしょう。
謎はすべて解けた!ガッテンガッテン!と、一人で勝手に喜んでいたのでした。とかいいつつ、この推理がガセだったらほんとにごめんなさい。
謎の祠
ガセネタついでに、先ほどの色塗り画像の中で、赤いピンを立てていた場所は、小さな祠があった場所です。
周りには何にもない、普通の駐車場の端にあった祠だったので、気になっていました。
なんだかこの祠、後の御嶽の方向を向いている気がするんです。
色塗り画像を見た感じでは、昔はこの祠の辺りまで入江だったみたいです。祠の場所から後の御嶽へ行くには、入江の周りをぐるっと遠回りして行かないといけない。
ひょっとしてもしかして、この祠、後の御嶽への遥拝所なんじゃないかしら。と見当をつけたのですが、これに関しては、まだ納得のいく答え合わせができていません。
今後の発見を楽しみにしようと思います。
ということで、いかがでしたでしょうか。後の御嶽の謎解きゲーム。信じるか信じないかは…。というか、できれば真に受けないでいてください。意図して嘘は書きませんが、本当のところはわかりません。
ただ、こういう楽しみ方がありますよ~。ほんで、それがめっちゃ楽しいんです。というお話しでした。
では最後に、関西人ならみんな使っている、とっても便利な一言で、記事を〆ようと思います。
「知らんけど。」
コメント